昭和43年7月21日 朝の御理解
御理解第45節「世に、三宝様踏むな、三宝様踏むと目がつぶれるというが、三宝様は実るほどかがむ。人間は、身代ができたり、先生と言われるようになると、頭をさげることを忘れる。神信心して身に徳がつくほど、かがんで通れ。
とかく、出るくぎは打たれる。よく、頭を打つというが、天で頭を打つのが一番恐ろしい。天は高いから頭を打つことはあるまいと思おうけれど、大声で叱ったり手を振りあげたりすることはないが、油断をすな。慢心が出ると、おかげを取りはずすぞ。」
今日はこの御理解の追求といったようなものではなくて、これを表面に出ておるこのことを素直にこのままを頂こうと思うんですから、どうぞこれをよく見たり聞いたりしとって下さい。
三宝様というのは穀物のこと、ね。穀物の意味です。これに、御理解、これにも注意がしてございます、ね。よくあの、私共でも子供の時にご飯やらこぼしますとそれを踏みつけたりするようなことはしちゃ、しよると目がつぶれるというようなことを言われました、ね。ですからここんところをですね、素直に頂くということは、はあ下にこぼれたものを拾って食べたりしたら病気する、不衛生と、はあそげなことしちゃならんといったような教え方ではなくて、ね。
もうそこにはね、ばい菌の入る隙がないですね、こういう頂き方は、ね。(ひらきておし頂く?)という心なんですよ。言わばそれを踏みつけないという心ですね。これが信心なされて一番尊いところだとこう思うのです。世の中で一番の宝と言えばどういうようなことだろうかと。それはね、本当なこと、真実、真実はこの世の宝である。その宝を踏みつけにする、その宝を粗末にする。これではなるほど、目がつぶれるだろうと思います、ね。
言うなら本当なことに目をむけない。本当なことを本当なこととして頂く素直な心がない、ね。信心というのは、その本当なことを分からしてもらうことが信心。しかもその本当なことから本当なことをいよいよ、極めていく、追求していくということである。いわゆる真実の追求である。いわゆる宝を求め続けるのである、ね。
私共が一生かかってその真実、いわゆる本当を追求するということはとても不可能なことだと思う。けれどもより本当なことを追求していくということは、人間としてのこれはもう当然の、だいたいはことなんだ、ね。そこの本当から本当なことを追求し、それを自分のものにしていくというところにです、いわゆる身に徳がついていくということなんです。
だからここには身代ができたり、人から先生と言われたりするようになると、頭を下げることを忘れるとこう言うというふうに言うておられますけれども、真実、先生になり、真実、身代ができていき、真実、本当なことが分かってきて、先生と言われ、本当なことが分かってきて身代ができてくるのなら、これはいわゆる三宝様が実れば実るほどかがむように、ね、穀物が実れば実るほどにかがむように、ね、本当なものであるなら本当なものであるほど、かがまなければならんというのじゃない。自ずとかがむのである、ね。
だから形では分からないことになる、ね。そこでこれは自分自身の心に自問自答してみるとよく分かるですね。人を軽う見る心があったり、ね、物を粗末にしたり、人の言うことは、いや、自分の思うておることがもう最高のもの、本当のもののような思い方をしておる、ね。ですからそこに頭を下げることを忘れる。言うならば負うた子にでも教えられる、いつも求めておる、いつも本当なことを求めておる。そこに負うた子にも教えられるような真実があるのです、ね。
自分、いわゆる最近お道の信心で言われておるところの自己を肯定しないでの生き方。同時に自己否定でもない、ね。自己を肯定しないでの生き方。そういう生き方ですね、言うならこれですんだとは思いませんと、これだけのことが分かった、だからこれですんだとは思いませんと。どんなにこれが私の真でございます、真実でございますと、それは私いっぱいの本当なことであっても真実であっても、ならこれですんだとは思いません、ね。
そこに限りない追求がなされるわけです、ね。だからいつでもより本当なことがあったら、それは負うた子に教えられるようなことであっても、ね、それを頂いていこうとする姿勢。そこに実れば実るほどかがんでいくというのは、ね、かがまなければならんのではない。実れば実るほど、ね、自ずとかがんでくる、三宝様のように、ある姿勢というのはそういうことなんだ。負うた子にでも教えられる、ね。
教えに従順、素直である。そういう意味で教祖の信心のひとつの純朴さというかね、素直さというか、ね、そういうようなものの中に真実をみる、ね。飾りがない、飾りになるものには必ず粉飾がある、ね。嘘があると言うわけなんです。飾りのないもの、ね、素朴に。世の中の一番大切な宝というのは真実である、ね。その真実を例えば踏みつける、本当なことを寄せ付けない。
それを自分の心に受けよう頂こうとしない。これはもうすでに三宝様を踏みつけておるようなものである。だから、それでは目がつぶれる、ね。目がつぶれるということは分からなくなってくるという、ね、まあここんところまあ難しく言うなら、ね、心の目を開くことできないということである、ね。
そこで私共はそれをお気付けというふうに言う、ね。天は高いから頭を打つまいと思うけれども、天で頭を打つのが一番怖いという。いわゆるお気付け。お気付けをお気付けと気付かない。それが怖い。もうすでに天が頭を叩いておるのである。そこんところを油断してはならん、油断すなと。慢心が出るとおかげを取り外すぞと、ね。ですから慢心とはどういうことになるですかね。
慢心とは自分の思うておることが本当だと思うておることが慢心です、ね。現在の私はそれを本当だと思うけれどもです、しかしより本当があるということをまずいつも思うとかにゃいかん、ね。そして、より本当なことをそこにヒントが与えられたらですね、それに素直にすっと入っていかなきゃいけん。それを自分の思うておるのが本当のような思い方をしておるところに慢心があるのです。
そういう意味のところをですね、素朴に素朴にこう、素直に受けていくということですね。例えばなら、まあ金光大神のあられ方というふうにも言われるし、まあ親先生のあられ方とも言うと。親先生の言われておることはもうそのまま神様の言われておることだとして頂けというようなことを、お道では申しますね。先生は白のことを赤と言いござっても、それは、ああ、赤ですなというような素直な心になれとも言われております、ね。
だからこれはどうしても私と皆さんとの、皆さんと神様との繋がりということと同時に皆さんと金光大神の繋がり。皆さんと親先生との繋がり、神様との繋がり。これが横縦、十文字になっていかなきゃならん、ね。いわゆるプラスになっていかにゃいけん。そこに素直さが要求されるわけです、ね。言うならば教会の動きというか、教会のあり方というか、ね、そのあり方に私は順応するということ。素直であるということなどはもう一番間違いのない生き方だと思いますね。
それも例えて言うと、その教会のあり様というか、生き方というものが、ヒレイの上に立っておるもの、ね。言わばおかげの上に立っておるものであるなら、いよいよ間違いがない答えがそこにもう出ておるのであるから、教会の動きにわけは分からんなりにでも、例えば眠り半分でもよいから、例えば皆さんがこうやって、朝の御祈念を努られる。まあ夕べも寝とらんという人達もある。ですからもう御祈念なんかはもう眠ってしもうとった。御理解の時も眠うしてこたえんじゃった。
だから、何もならんごとあるけれども、そこんところがね、言うなら何と言うか、ひとつの組織の助かりとでも言おうかね、自分はそこ何もならんごと思うとるけれどもですね、もう教会全体として助かっておる、ね。こんなこっちゃ参ったっちゃ何になるまいと思うごたるけれどもです、ね。
いわゆる横縦の繋がりというものがね、おかげになっていくのです、ね。そこにはだから、その理屈はないのですね、そこに理屈があるところに、もしあるとするならそれは慢心だということになるのですよ、ね、今日、だからそこのところを素直に頂いてもらわにゃなりません。例えて言うならば、昼の御祈念に夏の修行が始まっちゃある。まあそれに、まあ言うならば無条件で参加する、ね。
これなんかはもう素晴らしい金光大神との繋がりであり、親先生の繋がりです、ね。神様とはよし繋がっていなくても金光大神と繋がっておられる、ね。言わば縦の繋がり横の繋がりができていきよる。
例えばあの昼の御祈念を頂いて、いろいろおかげを頂いていっておる人、また、参加しておかげを落としておる人とあるのです。あの20分余りの、まあ言うなら熱烈な修行の姿というものに触れてですね、もう本当に感動したという人とです、もうあれを見てがっかりしたという人とあるとですよ(笑)、ね。金光様の御信心なね、それこそ、神様へ向うたらね、声を出さなくても、ね、無理やりに拍手に音をさせなくても、大祓いをあげる時に節をつけたりせんでも神には通うとこう仰る。
それにもう、その大きな声を張り上げて、そして、もう自然、御祈念の姿まで崩れる。もうリズムにのって、ね、それこそもうどしどしあげてから。もう自分の姿形なんかはもう考えていない。そういう姿に触れてですね、金光教的じゃないと非難する人。
昨日、久留米の佐田さんの若い奥さんの方が頂いてあるのがその方であった。日田に亀山公園というのがある、ね、亀の山の公園。亀山公園の前にあのボートを貸して、水遊びができるようになっている。沢山の人がボートや船に乗って、まあ遊んでおる。ところが中にしとる、その大きな瓶が浮いておる。瓶っていうのはあのかめですよ、どん瓶の。どん瓶っていうてあの水瓶のああいう瓶、ね。
ところがその瓶につかまっておったところが、瓶がすうっとこう裏返しになって、その子供を一人中へ入れたまま下へ沈んでしまった。というような、お知らせであった、ね。まあ言うならばですね、遊びというと言葉が悪いですけれども、ね、まあ言うなら亀山公園、ここは、ね。ここで皆がこの夏のね、これはもう夏でなからにゃできない修行、ね。信心のまあ言うなら遊びかもしれません、ね。ところがね、その遊びが素晴らしいのだ。
ああ、ああ(?)、朝の御祈念に参っとるとじゃからもう、はあ、一生懸命拝むことを怠っちゃ金光教的じゃない。もう遊びを知らない人。ならその自動車を運転なさる方が分かるでしょう。ハンドルを持って遊びがなかったらどういうことになる。人間にはゆとりというものがなからにゃいけん、言うなら遊びである、ね。それを非難する、ね。瓶が水のとこへ引っ込んでしまっとる、ね。
だからそういうな雰囲気があってはあの遊びが崩れてしまうから、それは水の中にもう突っ込んでしもうたという意味じゃないです。その遊びからのかしたと、邪魔になるから、ね。自分の例えば、ああいう生き方はおかしいというようなふうに思うておるけれども、神様はそういうことを思うておる者はその遊びの雰囲気がなくなるから外してござると。それがよし遊びであってもです、ね、例えばあのよく昔は信心実習、もう本当に言うなら遊びなんです。
本当にお弁当持って、好きな者同士が、ね、さあどこどこ公園に行って、一日を愉快に、まあいわゆるレクリエーションです。ところが信心実習と名を打っておりますから、確かにあの遊びの中に神様の一分一厘の間違いのなさというもの、親先生を中心にしての遊びがこんなにも間違いのないものであるかという体験を頂いてきたものですよね、ね。ゆとりがなからなきゃできるこっちゃない、ね。
例えばんならそういうようなことでもそうである、ね。教会あげてのひとつの行事といったようなことに参画する、ね。それは例えば、自分からはあまりにも大人気ないものなのかも分からない。けれどもそれにね、それに語らせてもらうというその遊びが必要なのだ、信心は。そこの辺をね、今日は素直に素朴に頂いてもらわにゃいけんのです。そこに例えば合楽的助かりとでも申しましょうかね。
一緒に助かる、それは自分が眠っておっても、ね、助かっていっておる。そういう助かりと、真実、皆さんの信心とは助かる、ああ、繋がる、神様と、ね。そういうことはどういうことになるかと言うとね、ひとつの教会的ひとつの活動というか、動きというか、それに任せるということは、これは私が言う、成り行きにいつも身をゆだねておることなのです。いわゆる雲水行である、ね。
皆さん、今はあんな修行をしておられる方が少なくなりましたね、雲水。あのお坊さんのこと、ね。こんな饅頭傘を被っておるでしょう。いわゆる梅林寺さんのお坊さん達が今でもあんな傘さしてますね。饅頭傘。(ふか?)が見えない。あの深い(あみ傘?)をかぶっている。言うなら自分の足下だけしか見えない、ね。それでいて、行く雲流れる水である。成り行きに任せてあっての生き方、ね。
そこに食べ物が落ちておれば、それを押し頂いて拾う、今はどうか知りませんけれども。昔の梅林寺のお坊さんなんかそうでしたよね、町を歩いておってお野菜が落ちておるとそれを拾うて帰られる、拾うて帰られる、ね。いわゆる三宝様を踏まないという姿勢なのだ、ね。
勿体なし、それがいつも足元だけを見とる傘。人を見らない、ね。信心はとにかく人を見たらつまらん。自分自身の心をいよいよ深く見つめていくこと、ね。その上に成り行きというものを大事にしていく。成り行きに逆らわない、ね、今日、私が言う、ね、本当の生き方というのはね、そういう生き方の中にしか生まれてこないのだ。真実の生き方と、ね。
自分の考えでの生き方じゃない。神様が求め給う、教会で求める、親先生が求められる。しかし、教会に信用がなかったり、先生を信用してなかったらこらもう仕方がないこと、ね。けれども、まあ信じなさい信じなさいと、と言うたところで信じられないものは仕方がないけれどもですね、まあ皆さんが私をここで信じて下さるなら、私の生き方を信じて下さるなら、昨日ある方がですね、もう大変な難儀な問題でお参りをしてきているんですよ。もう本当に大変な問題なんです。
それにね、昨日、昨日の朝、お夢を頂いたんです、ね。そしたらその親先生が眠っておるようであって、目が覚めとるっちゅう。目が覚め、ね、眠っとらんと思うておった。ところがその、はっと思うたら枕元へ親先生が見えとったっち。心配せんで俺が言うとおりついて来いちゅってから怒られた。もう不安で不安で心配でたまらなかった。眠れんごとあった。
けれどもね、うとうととこう眠ったか眠らんか分からない時にそういうお知らせを頂いた。で、腹が決まりましたというわけである、ね。私の言うことを信じて下さいと、信じなさいと言うても信じられなきゃ仕方がないけれどもです、ね、皆さんが私の言うことを信じて、ここで信心の稽古をなさるならばですね、ね。私の思いに沿うことであり、私の生き方に沿うていこうというその素直さが大事なんです、ね。
それが着いて来られない。素直に着いて行きたいと思うけれども、事情が許さない。そこにはこれですんだとは思いませんというものがあるから、それはいいのですよね、だから。けれども、そういう生き方は、そういう生き方は自分の生き方の方が本当だといったような思い方、これですんだといったような思い方。自分なもうこれでよかというような思い方。
これは恐らく、天で頭を打ち続けることだろうとこう思う、ね。それをただ気付かないだけなのである。慢心が出るとおかげを取り外す、ね。慢心とは素直に人の言うことが聞けないということが慢心と。人の言うことと言うて、誰もかれもというわけにはいかんにしても、ね。いわゆる金光大神の言われること、親先生の言われることを素直に聞けないということはもうすでに慢心だ、ね。
それは遊びであるかもしれないけれども、信心にはそのゆとりが大事なのだと、遊びが必要だと、ね。真実はこの世の宝である。私は今日、45節のこれを素直に素直に表面だけをとこう申しましたけれども、また少し、深刻になったように思いますけれどもね、まあどうぞこの三宝様を踏むなということ、これは真実を踏むなということ。本当なことを、本当なことを粗末にするなということ、ね。
そんなら皆さんが教会で行われておること。これはまあだ皆さんが本当なことだとひとつ、思い込んで下さいということなんだ、ね。それが例えば嘘であっても、遊びであっても、ね、教会で言う、先生が言うておられることは本当だと、教会で行われておることは本当だと、あれがおかげの頂けていけれる道だと信じて下さいと言うのである、ね。
神様と皆さんの繋がり、同時に金光大神、または親先生との繋がりと。またはこれは信者同士の繋がりということにもなるだろう、ね。一人じゃ遊ばれん。天地を通らなけりゃ遊ばれん。信者同士の繋がりということでもある。それは眠とったから何もならなかった、きつかったから何もならなかったようにあるけれどもです、いわゆる団体としての助かりちゅう、組織の助かりとでも言おうか、ね。
しかもそこにはゆとりのある、遊びというものがあるということ。そのことがね、本当なのだ。人間にはその遊びというものがなかったらです、いけないということ。切って次いだように、きちっと機械のような、例えば生活という、こんなに(もみかんそう?)な話じゃない、ね。
だからそれをある人は遊びだと言うかも分からない。けれどもその遊びそのことがです、本当なことなのだと、人間が幸せになっていくにはどうでもそれが必要だと、ね。同時にです、私共がです、だんだん信心さして頂いて身に徳を受けさして頂き、身代もでき、おかげも受けさして頂いて、ね、自ずと、ね。自ずと頭が下がっていく内容というか、人を目指さなければならない。
はあ、自分な身代がでけとるけん、これはあんまり高ぶっとっちゃいけんからこう頭を低うする。いかにも実意丁寧のようにしておる。これがね、そげなふうに思うてから頭下げたんじゃったらそれはもう素面と同じことです、ね。いわゆる三宝様が実れば実るほどかがむというのはね、自ずと下がってくるのだ、自ずと、ね。そこにですね、それを自分の尺度と言うかね、それを狂わせないおかげを頂くために、ひとつ雲水行が必要だと、ね。
人を見るなり、いわゆる饅頭傘をいつも被っとるけん。行く雲流れる水である。成り行きに逆らわない、ね。そういう生き方の中から真実、それとてもです、真実というのはどこまで限りがあるやら分からないっちゅう、ね。その限りがない真実を追究していくところに限りのないおかげが伴うてくるのである。ここまで本当なことが分からなければ、助けてやらんと言うのじゃない。
けれどもここにストップしたもの、もうこれでよいと、これが本当だといったような考え方をしておるところにです、おかげがストップするのです、ね。それは負うた子にでも教えられると、いつも求めてやまない、どこのはしからでも頂こうとする、言わば遊びの中からでも、神様の間違いなさを分からして頂こうとする姿勢が必要なんだ、ね。
だから、いわゆる馬鹿となれ、阿呆となれと。いわゆる素直という、私は、私は馬鹿と阿呆ということは素直の(だい?)ということだと思うんですよね。最近はそれを私が偉大をつけて、「偉大なる馬鹿と阿呆になれ」と言うわけ、ね。そこにはもうすでに遊びも中にあるわけです、ね。そのために、いわゆるこれですんだとは思いません、ね。自己を肯定しないでの生き方が求められるわけなのです。
私はその意味はよくは分かりませんけれども、親鸞聖人様もやっぱりそういうような道を辿られたのじゃなかろうかと思う、ね。もう90幾つの、いわゆるご晩年の頃に言うておられることが、ね。自分の踏んできた道はね、皆、空言だったと言うておられますよ。そしてこの世の中には真あることなしと言うておられます。
確かにその通りです、ね。こうやって本当だと。それを本当だと思い込んで、だんだんまた、なお追求していきよると、今まで思うておった本当なことはまた、もう空言になってしまう。これを真実の追求の意味だと私は思うんですよ。あれほど世の中から生き仏様のように言われたお方が知らごとの道を通られたと思われました。いわゆる真実の道を通って来られたという意味なんです。
しかも、辿り辿っておいでられたけども、なら本当の真実というものには行き渡られなかったからこの世のこと、もう全てのことがみな空言である、ね。そういうような、もうだから信心とはね、その本当なことをいよいよ追求していくわけなんです、ね。そこに楽しみもまた、あるわけでございます、ね。ですからそこには限りのない、おかげがついてくる。この辺のところが不思議なところですね、本当なことでなくてもそれを本当と思い込んで、それを行じていきよるところにそれにちゃんとおかげがついて。
けれどもよりまた勤めて、ね、これですんだとは思いませんという生き方でいきよると、また次の本当なことを与えられる、ね。そこへすっとこう、飛躍していく。いわゆる昨日の昼の御理解じゃないけれども、ね、心のスピードアップを願えと言う、ね。心がもういつも、ね、もう次々と切り替えられていく。そういう私は、ことが必要である、そういう願いが必要である。
もうそれこそ馬鹿のひとつ覚えんごと、これがほんなこつと言うて、10年前言いよることを今もやっぱり同じことを言っておる。そらつまらんち、ね。んなら私もやっぱり10年前のことを言うておりますけれどもですね、その時の本当なのである。だからやはり、幼稚園の人には幼稚園の時の本当を教えなきゃいけんのである、ね。小学校には小学校の本当なことを教えなきゃいけんのである、ね。
ですから、小学校なら小学校に行ったから、もうこれが本当だと言うて大学生の言いよることは、そげなことは嘘、そげなことはないって言うようなことではいけないというのである、ね。いよいよ最高の真実を求めてですね、お互いが信心の稽古をさしてもらう。今日は私はとりわけね、素朴に素朴にと言うが、今の三宝様を踏むなというあのその御理解をですね、素朴に素朴にひとつ頂きたい、素直に頂きたい。
そして、まあ結論としてはですね、ね、三宝様を踏んではならない、ね。本当なことを踏んではならない。ならその本当なことはどういうことかと。様々、沢山あるだろう。皆さんが思うておることも本当なのだ。けれどもより本当があったらです、それを粗末にしないで、踏みつけてはならないということ。まして、特にです、ね、現在のように教会が、言わばあげて、発展途上になる合楽教会の場合はです、ね、合楽の教会のそのあり方に神習えと言うのである、ね。
それは自分の考えとはちっとは違うようであってもです、ね、それに素直についてくる、それが遊びだと。遊びもまた、必要だというようなことを分かって頂きたいと思うですね。どうぞ。
明渡真